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ヘンペルのカラス1羽も調べることなく「カラスは黒い」ということを証明できてしまうという結果を導く
ヘンペルのカラスのパラドックス。
部屋の中にいるだけで「黒くてカラスではないもの」は数千個見つけられます。カラスは見ていないけどカラスは黒いという命題が確からしくなっていく。確かに奇妙な話です。
しかしここまで挙げた対偶論法や演繹法はちゃんとした手続きを踏んだ上で扱ったものなので、数学的・論理学的に間違っているところはありません。ヘンペルのカラスは、仮説演繹法が時に一般的な感覚とは乖離した結果を導くことがある、ということを指摘しているのです。
ヘンペルのカラスをパラドックスだと感じる原因は、「黒くないもの」の数が非常に多いというところにあります。
範囲が限られている命題の場合、調べた事例の数に比例して命題の確からしさは上昇していきます。しかし今回は調べるべき対象の数があまりにも多いため、何万個黒くないものを見つけても命題の信頼性はほとんど上がりません。
そのため「黒くないものを調べていけばいずれカラスが黒いと証明される」という論法が間違っているように感じるのです。
「すべて、無限」などを想定して扱うことが出来る数学の世界では、ヘンペルのカラスはパラドックスになりません。1羽もカラスを見なくても、有限である「黒くないもの」を調べあげてそこにカラスが含まれていないことを確認すれば、「全てのカラスは黒い」と言うことが出来るのです。
また実際の生活の中で「AはBである」と言う場合、「Aは一般的にはBだ」という意味になります。全てのAを調べた上でBである、と主張する機会はほとんどありません。それほど厳密さは求められないのです。
一方数学や論理学の世界では、その命題が真か偽か、ということが全てです。
「AはBである」と言う場合、全てのAに対して例外なくBである、という意味になります。
言葉の微妙な意味の違いも、ヘンペルのカラスが逆理だと感じさせる原因になっているようです。
参照:>>
1=2の証明 >>
モンティ・ホール問題
「全ての100円アイスは100円である」という命題に対する反例
一般的な感覚との差を突いてくるパラドックス。
数学や論理学の奥深さを感じます。
↓物価上昇の影響がこんなところにも↓

関連項目:
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テセウスの船>>
誕生日のパラドックス>>
抜き打ちテストのパラドックス>>
ベイズの定理>>
ラプラスの悪魔>>
シュレディンガーの猫>>
世界最長の楽曲>>
考える人>>
ピーターラビット>>
リスとどんぐり