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「偉大なる知性vs空飛ぶスパゲッティ・モンスター」

副題だけを読むと「管理人ついにとち狂ったか」という声が聞こえてきそうです。が、今回はアメリカの公教育の場で問題となっているインテリジェント・デザイン説についてです。

生物の誕生とその進化の過程を知ることは人類にとって大きなテーマのひとつです。
日本においては、
「最初に単純な生命が発生し、長い年月をかけて徐々に高等な生物に進化してきた」
という進化論が最も一般的な理解だといえるでしょう。この最初の生命をLUCAと言い、全ての生物の共通祖先だと考えられています。

進化論を採用する場合、各種宗教における創造論の立場が危うくなることが簡単に想像できます。例えばキリスト教・ユダヤ教・イスラム教では、神様がこの世界と「現存する」生物を作り、最後に人間を作ったと教えています。仏教やヒンズー教でも世界の創造という似たような考え方がみられます。

神による「現存する」生物の創造という考え方は進化論とは全く相容れない性質のものに見えます。生物は進化によって現在の姿形を獲得したのではなく、神様が現在見られる生き物を世界の始めのほうで既に作り出してしまっているからです。

このことは西洋キリスト教国において大きな問題となりました。科学の発展に伴って進化論が無視できない程の力を持つようになり、西洋社会の根底にあるキリスト教思想と鋭い緊張関係に立つようになったのです。

「神による世界の創造」という聖書の記述に科学性を認める立場を創造科学といいます(ただし実証不可能な論証を数多く含むため、厳密な意味での科学とは呼べないかもしれません)。創造科学者にとって、近代科学を取り入れて日々その力を増大させる進化論と、自らの信奉する神による創造という世界観との間で、一定の折り合いをつけることは避けて通れないものとなりました。

そのすり合わせの結果生まれたのがインテリジェント・デザイン(ID)説です。

ID説の最大の特徴は、宗教色を薄めた創造論を展開している点にあります。
創造科学の段階では「神」による世界の創造を前提とし、聖書の記述を出来るだけ”科学的に”説明することを目標としていました。
しかしID説では、「偉大なる知性」が宇宙や生命を創造した、と捉えています。
そして「原始的な生命が高等な生物に進化してきた」という進化論を一部取り入れつつも、そのような生物の進化の過程は「偉大なる知性による操作の結果である」と主張しているのです。

生物の精巧な身体の造りや、絶妙なバランスの上に成り立つ生命システムはまさに”Devine(神の為せる業)”です。現代の科学技術をもってしても人体の細胞と同じ働きをする機関ひとつ作り出すことは出来ません。

このような精妙なシステムが現在のように機能するには「偉大な知性による設計(Intelligent Design)」が必要であり、まさに世界の自然の仕組みの存在自体が神の如き偉大なる知性の存在を証明している、というのがID論者の発想です。この考えはカントの言う「神の自然神学的証明」とほぼ一致します。

さて。ここまで見てこれば明らかなように、偉大なる知性が進化を主導した、という考え方に対して論理的な反論を行うことは非常に困難です。「操作が実際にあったから現在のような世界が存在する」と主張するID論者に対して、これを反駁するには(1)偉大なる知性が存在しないことを立証する、あるいは(2)操作がなかったことを証明する、いずれかの方法しかないからです。

(1)は思想・信条の世界に属する事柄であり、科学的な証明にはなじみません。(2)も「全ての進化の過程において操作の痕跡が残っていない」という事を示さなければなりません。悪魔の証明(追記参照)もいいとこです。

このように、ID説は「神」という表現を避けることで見た目上の宗教色が薄くし、また否定も肯定も出来ないという性質を持っています。そのため聖書信仰が薄れている一般のキリスト教徒だけでなく、非キリスト教徒に対しても受け入れを求めることが可能であり、また政教分離の原則を回避しやすくなっています。進化論に押されて権威の揺らいでいた創造科学者・保守的キリスト教主義者にとって、自分達の力を盛り返す非常に魅力的な道具と映りました(彼ら自身は創造論を信じているので、一般大衆への浸透という意味において、です)。

こうして、ID説を普及させることは組織の再統制を目指すキリスト教右派にとって非常に重要なテーマのひとつとなりました。中でもID論者が最も熱心に求めた事の1つが、公教育への採用でした。


続きます
>>インテリジェント・デザイン説 2


追記:「悪魔の証明」
 ある物の存在の有無を争う場合、「存在しない」とする消極的事実の立証の方が、「存在する」という積極的事実を立証するよりもはるかに困難です(1つでも証拠を挙げればいい積極側に対して、全ての場合において不存在の根拠を示さねばならない)。これが俗にいう「悪魔の証明」というやつです。悪魔の証明を相手に要求すること自体、議論の方法すら理解していない不勉強で不誠実な人間だという証明になります。
(例)
・「ポルノは性犯罪の危険性を高めない」(議論)
←「ポルノへの暴露が性犯罪のきっかけとならない証拠を見せろ」(不存在証明の要求)

・「死刑制度の存在は犯罪抑止力にならない」(議論)
←「死刑がない事によって防げる犯罪を挙げてみろ(不存在証明の要求の裏返し)

この悪魔の証明を逆手にとって議論を行おうとする人もいます。
(例)
・「性犯罪予防のため性犯罪者の情報を公開すべき」
→実際に防げる犯罪は不可視。逆に出所者が被る被害は現実。
  しかし「防げる性犯罪を見せろ」とは要求できないため、利益考量が恣意的になる。
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